cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

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永々流転~秋の節句・重陽と日本人の生命感~

 残暑まだまだ厳しい中、おずおずと咲き始める萩の色にひめやかに秋の気配し始める九月。
旧九月は菊見月の名の如く、新暦十月半ばから十一月ごろ、
天高く澄み、金に紅に地を染め上げる紅葉と菊の花咲く晩秋にあたります。

 稲田は金色の実りへと色を変え始め、自然界全体がひたひたと近づいてくる冬籠りへ向けて
備え始める中、五節句の最後、重陽が行われていました。
別名を「菊の節句」とも言い、とりわけ典雅で、また現代では人気のないのがこの節句

他の節句とともに奈良時代に伝来した重陽ですが、源氏物語にもその様子が描かれています。
重陽は前日の夜、咲き誇る菊花の上に真綿をかぶせる「菊の着せ綿」から始まります。

菊は別名を「千代見草」とも言い、秋の花々や紅葉がどれも儚く淋しげな風情を漂わす中、
霜が降りる冬に至るまで、長期間を美しく香り高く咲きつづける強靭な生命力から、
菊の根元から沸く泉の水を飲むと不老長寿を得られる等、
不老不死にまつわる数々の仙境・仙人伝説を持つ高貴な花として皇室の紋章にも使われています。

その菊の持つ香りと霊力、月光と日の出の太陽の3つの霊気の宿った露をたっぷり含んだ真綿で
体を拭くと、不老長寿の効用を得られるとして平安貴族たちは大切な思い人や家族などに重陽の朝、
文を添えて送りあったようです。

干した菊の花びらを詰め込んだ菊枕で寝る習慣もありました。

 重陽の日には、菊の花びらを浮かべた菊酒、菊花茶、菊料理などが供され、
管弦や歌会が催されました。塗りの杯に入った酒に月光を映し、菊を浮かべて飲む何とも優雅な光景が
見られたことでしょう。

 実際乾燥した菊花は漢方薬の一種として、老眼・滋養強壮・代謝を整える効果があります。
現代的な観点では視覚・嗅覚・味覚と植物の効用をフルに使った総合植物療法と言えますね。

 九月九日は陰陽思想では陽の最大数9が重なる「最陽の日」。
陽極まれば陰、旧九月九日を過ぎると季節は急速に自然界のすべてが次の再生の為の
「死の眠り」に入る陰の季節・冬へと移り変わっていきます。

菊と九九は音が似ていること、霜の中でも咲き誇る菊の強靭な生命力、花の形と白・黄・赤紫の色が
太陽を連想させることから、陽の生命力宿す地上の太陽として、いにしえ人の目には映ったようです。

 ちなみに江戸時代頃まで菊といえば一重か八重の小菊。
厚物と言われる大輪の菊は江戸時代以降のものです。

 来るべき最陰の死の季節・冬、そして春に新たな復活・再生を遂げるための陽の生命力を
蓄える行事が重陽節句だったのです。

現代ではどうやら他の節句に比べ商業性に乏しい故でしょうか、あまり祝われることのない行事ですが、いにしえ人たちにとっては、観月の祭りや少し後に行われる最大最要の祭り、神嘗祭と並ぶ
秋の重要な行事でした。

 別の記事で詳しく述べますが、観月や神嘗祭が農耕や食といった生命の根源に
ダイレクトに関わりを持つのに比べ、重陽は秋という季節自体の持つ無常性や美しさといった、
より観念的な部分で日本人に愛されてきた節句と言う点で特徴的です。

 秋の美しさ・無常の儚さとは、冬という死に向けて生命が一度滅ぶ、
その最後の炎と光の揺らめきから生まれてくる美であり、次なる再生の為の滅びであることを
日本人は直感的に捉えていたのでしょう。

固定化された不変ではなく、陰→陽→陰→陽という永々繰り返される流転と循環のその中にこそ、
普遍性・永遠性と美が宿ると日本人は考えていました。

 それは伊勢神宮が社殿を壊しては立て直す「式年遷宮」というシステムによって、
技術やシステムなど無形の物も含め、千年余も変わらぬ姿を保ちつづけている例や、
日本文化や美を語るときに必ず引用される「わびさび」という言葉からも伺えます。

 わびとは滅びゆく「枯れの美」であり、さびとは成長していく「生命力や霊気にあふれる様の美」を
指す言葉だからです。こうした深い精神性や知識を学問ではなく、日常の暮らしの中の知恵、
衣食住を含む行事や習慣として様式化してきたところに、この和の国の人と文化の持つ長所と短所が
同時に存在しています。

 正食で学ぶ食の中にも、ごくごく当たり前の生活の知恵や行事として伝えられていたが故に継承されてきたものと、本来の意味合いが失われてしまったものとがありますよね。

食の観点からも節句行事はもっと本来の意味と姿を復活させたいものです。