cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

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生みの親だけが親じゃない?七五三と地域社会~

 霜月・11月。現代では深まりゆく晩秋の中、朝晩の凛とした空気の冷たさに冬を感じ始める頃。
旧暦では冬の真ん中、冬至の月です。

 11月の行事といえばやはり七五三。現代のようなスタイルになったのは徳川時代
後に悪名高い生類憐みの令で知られるようになる五代将軍・綱吉の頃からと言われていますが、
元々「三歳・五歳・七歳」という年齢が実際に子供の体調や精神に変化が訪れる年だったこと、
また奇数を吉の陽数とする思想から、種々の厄払いの行事を行っていた事に由来し、
「めでたいから祝うのではなく、祝うことでめでたくする」行事です。

 現代科学でも母親から胎内でもらった免疫力が失われ、子供が自力で免疫力をつけ始めるのが3歳頃、永久歯が生え始め、子供同士の間での役割分担や社会性が生まれて、自立心が芽生え始めるのが五歳頃とされています。
 現代では節目の年に晴れ着を着て神社へお参りをする、くらいの認識ですが、
伝統的な七五三の祝いはそうした子供個人の心身の健やかな成長を願う他に、
親にとっても子供にとっても地域社会や共同体の中での自己との関わりを認識する儀式という側面が
実はありました。
 
 本来の七五三とはどういうものだったのでしょう?

 最初の三歳は「かみおき髪置」の儀。古来は生まれて三歳頃までは、男女とも髪を剃ったクリクリ頭が普通で三歳から伸ばし始める、またはハサミを全く入れないで三歳で始めて切ったとも言われています。
 
どちらも古来髪には霊力が宿る、物がとりつきやすいと考えられていた為のようです。

 この3歳の儀式時に綿帽子と言って、子供の頭頂に白い真綿をのせ白髪頭になるまで
長生きするようにと祈ります。この白髪綿を被せる人を「髪置親」と言い、その地域の長寿者が
選ばれました。

 また紐付きの着物をやめて、付け帯に変えるのも三歳からです。
帯には魂が肉体から飛び出さず、しっかりとハラに鎮まるようにする意味合いがあります。
三歳までの子供は、肉体を持ちながらも人ならざる者という認識が此処から伺えます。

 五歳になると男の子の「はかまぎ袴着」の儀。この時に初めて袴を着るようになるのですが、
他にも冠をつけて碁盤の上に乗り、四方に向かって神に祈る儀式も合わせて行われました。
人生と言う碁盤の上で、どの方角を向いても勝つようにとの願いが込められています。

この時に袴の紐を結ぶ「袴親」、冠を被せる「冠親」が選ばれます。特に冠親はその子の生涯にわたる
後見人・保証人ともなるので、地位や人徳・信望のある人物が選ばれました。

 同様に女の子は七歳で「おびとき帯解」の儀を行い、付け帯から大人と同じ幅広の結び帯を
するようになります。魂をしっかりと体内に留め、身を持ち崩さぬようにという意味で、
やはり母親代わりになれる、しっかりした女性が「帯親」となって帯を贈り、結んでやります。

 生みの親以外に、「親」と名のつく人が共にお祝いをしてくれて、後々もその子に関わり
見守っていってくれる訳です。それは自然と「家族」という小さな単位に留まらず、
子供心にも自分が多くの人や社会と言う物に関わり見守られているという認識を育てていきます。

 逆に髪親や帯親となる人もまた、子供に対しては勿論のこと、選ばれるという名誉にふさわしい、
地域の中での自身の信望や責任を再認識しますし、頼む側の生みの親も、自身が社会や地域に対して
役割や義務を果たしているからこそ、然るべき人物に依頼する事が可能になる訳ですから、
三者が各々の立場で自己の社会や共同体の中での責任と自覚を意識し、社会性と絆を育んでいく訳です。

 現代のように隣に住んでいる人の顔すら知らないというのとは随分事情が違います。
こうした風習は、義理や慣習に、小さな集落であれば、それこそ実際に村中が身内という、
がんじがらめにされる窮屈さを伴う欠点も見られますが、
多くの人と関わり生きているからこそ、「自己の言動とその顛末にまで責任を持ち、何より自身が恥ずかしくない生き方をすべし」という、「有機的なネットワークを構成する一員としての個人主義」が
伺えます。

 江戸という都市は当時の世界では、最も規模も人口も巨大でありながら、
最も犯罪も法律の数も少ない精神的にも成熟した都市だったと言われています。
それに比較すると現代日本個人主義は「利個人主義」という感がありますね。

 教育にしろ食育にしろ、個々の家庭は勿論ですが今一度日本的地域社会や共同体の在り方からも
考え直していきたいものです。