cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

屋久島・永田のCafēとゲストハウス。ゆる~く菜食&マクロビオティック 営業案内と田舎暮らし・農・食・サスティナブル・教育その他雑多に。

食卓の小さな神様

 使い古された言葉ですが、食欲の秋・芸術の秋です。

近所の八百屋の店頭に栗やマツタケが並んでいます。安価なものは9割が中国産。
農薬やら何やら色々心配の多い彼の国の輸入品ですが、こうした季節を生身で感じさせてくれる物が
ある事だけでもありがたいものです。

 「食文化研究家」という仕事柄、自然食志向の方やマクロバイオティック実践者の方たち、
これから取り組みたい人たちとお話する機会が多いのですが、最近本音でいうと「?」と思うことが、
しばしばあります。
 何かと言えば、主義や方法論・知識ばかりが先行して、安心して食べる事の出来る物が無く、
食生活そのものが窮屈になっている人、普通に外食やスーパーで買い物する人に対して、
ある種のエリート意識と侮蔑的な意識を持って、自分の実践や主義に安住している人が
とても多い気がするのです。

 冒頭から「なんのこっちゃ?」なお話ですが、「自然食」であれ「マクロバイオティック」であれ、
簡単に言うと、「自分のハラにキチンと鎮まっていない」、つまり「生き方・ライフスタイル」に
なっていなくて、それを実践していることが免罪符や奇妙なエリート意識になって、
自分を安心させているだけの人が最近やたらと目に付くなぁと思うのです。

 もちろん、運送コストや農薬・添加物の多い輸入品より国産の方が安全性、環境配慮、
省エネルギーの面でも◎ですし、丹精こめて作られた無農薬や有機野菜のほうが、
絶対体にも味覚にも美味しいことは明白です。

 でも、料理をするのは「自分」です。食べるのも「自分」と「自分の大切な人」だということが、
時にはある意味それ以上に重要ではないかと思うのです。

 西洋には、心を込めて作られた美味には天使が祝福に(味見?)に舞い降りる、
というような言葉があるのだそうです。

けれど「○○を実践しているから」「安全な店で買ったから」「体や成人病にいいから」
ということにだけ終始している料理や食品えらびで安心しているだけの食卓に、
果たして天使は降りてくるのでしょうか?

何だかそれって「○○学校に通わせているから、うちの子はいい子に育つ」
「○○さえやってれば将来も安心安定するに違いない」等と言って、学校や熟などの、
いわば他人に子育てを全部お任せしている親と同等な気がします。

世の中やマスコミが与えてくれたマニュアルや方式、流行に寄りかかってしまっていて、
「自分」と言う主体が、実はまるで無い事に気付いていない。
与えられた複数の選択肢の中で選んでいるだけにすぎないのに、自身では個性的だと思い、
いざとなると「みんながそうしているから」「テレビや雑誌でいいって言ってたから。」と、
自分と言う存在や選択に何の責任意識も参加意識もない・・・。

 我が母上様は「味の○」も化学調味料もバリバリ使い、添加物たっぷりの加工食品なども
結構ふんだんに使っていた、またその危険性などは露ほども語られることのなかった高度成長期、
おそらく団塊世代と呼ばれる、ごくごくスタンダードな日本人です。

どちらかと言えば、かなり貧乏していた家で、インスタントラーメンなどもしばしば昼食には登場し、
おにぎりも「アジシオ」で握っていました。
かなり保守的な人なので、ファーストフードやファミレスのような、
目新しいものには否定的でしたが・・。

 けれども・・・私の記憶にあるその母のつくる料理の味と記憶、僅かに白菜や小松菜が入った
インスタントの塩ラー○ンや山○食パンの耳のフレンチトースト、
魚肉ソーセージや鮮やかな赤色のウィンナー入りの炒り卵など、
今の概念から言うとおよそ健康的でも安全でも全くない、むしろ危険かもしれない上に、
決して豊かではなかった食卓は、それでもとても美味しく楽しい幸せな味と記憶として思いだされます。

それはもう不思議なほどに・・・・。

今、自分で無農薬のお米を使い、天然伝統製法の塩で何度おにぎりを作ってみても、
あの子供の頃の、母の作ってくれたおにぎりの味には、とても悔しいことですが決してならないのです。

 食品は安全である方がもちろんいいし、学校も素敵な教育方針や環境である事のほうが、
もちろん良いに決まってます。

手間隙かけて作られた無農薬の野菜、ゆったりとしたリズムで人の手をかけて生産された牛乳や
加工品は文句無く美味しいものです。

 だけど、最終食卓に天使を呼び込むのも、将来の価値観や生き方の土台に大きく影響するのも
親や自分自身という「人」そのものだと私には思えてならないのです。

 仏教には精進料理がありますが、私は「招神料理」、あるいは「昇神料理」でありたいと、
最近よく思います。

 日本は八百万の神々の住まう国と昔から言われてきましたが、
本当に感謝や愛情など様々な心を込めた食卓には、野菜やお魚や火や水、台所などからの、
小さな無数の神様たちが喜んで降りて来るのだと思うからです。

 天の日・太陽(カ)と大地・水(ミ)の恩恵で育った野菜や動物を火(カ)と水(ミ)で調理し、
カミカミ(咀嚼)していただくのです。

調理をし、火と水のある台所を守る女性を伝統的におカミさんと呼びます。
味噌やお酒、パンやチーズなどあらゆる発酵食品は醸す(カモス=カミス)ことで美味になります。

私達は日々、神様を調理し、食べ、生かされていると考えたら、
これはなんて素敵でスゴイことでしょう!?

実は私達の体は血の一滴(ひとしずく)、細胞のひとかけらまで、
全部まるごと神様で出来ていることになるのですから。

 だから食卓は、そんな名もないくらい無数の神様たちが降りて来るようなもので
あってほしいと思うのです。

安心・安全である事も大事だけれど、それを免罪符にして、自身の生き方に関わる部分を手抜きしたり、
例えば親の愛情とか責任とかを学校や熟や、マスコミなどの「自分自身」以外の誰か・何かに
預けてしまうようなら、その効果は半減どころか1/10以下のように思います。

 食べるという行為は直接に生命を養い、明日の自分・明日の大切な誰かを作りだす、
生きることそのものであり、裏返せば無数の生命を殺して自らの血肉にする行為なのですから・・・。

その食べるという行為、食卓に本当の意味で「自分」の選択や存在が通っていない、
自然に自分の内側から出てくる想いや愛情や行為の結果としての選択や主義でなく、
形や理念・知識だけが先行しているのなら、それは単なるマニュアル・借り物でしかないと
いうことです。

主義主張や口先で言っていることが、どんなに立派でも、それが借り物である限り、
最終自分の生き方になっていない、自分で落とし前がつけられないし、またつける気もないわけです。

 血も気も愛情も通ってないところには、どんなに安全でキレイだとしても、
神様たちも天使も決して降りては来てくれないように想います。

 記憶や想い出に残る味も食卓も、きっと生まれては来ないでしょう。

 最後に蛇足ですが、我が母上は健在ですので念のため・・・・。