cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

屋久島・永田のCafēとゲストハウス。ゆる~く菜食&マクロビオティック 営業案内と田舎暮らし・農・食・サスティナブル・教育その他雑多に。

自給自足を考える 何処まで可能その②

どこまで自給自足で賄うのか・・・?


田舎暮らし、もしくはスローライフを楽しむ為にはこの線引きが肝心に思います。
もちろん田舎暮らし・スローライフといっても人様々で、定年後に豊かな年金なり貯金なりで
悠々自適に暮らす。或いは田舎にいても何らかの仕事をしてバリバリ稼ぎ、趣味程度に農業を楽しみ、
後は都会の暮らしと変らない生活をするのであれば、そんな線引きは必要ありません。

それとは全く逆に毎日ただ食べたり生活するために働く・・・。
畑で取れたもの、自分たちの手で取れた物のみを食べる。
電気やガスや石油などのエネルギーを使わず、太陽と炎の光と熱だけで暮らす。
そこにはラジオもPCもなく、自分たちが奏でる以外の音楽も歌も無い・・・。

本当はそんな暮らしこそが地球全体にとっても、自分達の生命にとっても一番いいのかもしれません。

でもそんな暮らし出来ますか? そして楽しめますか?
私は出来ません(笑)。私一人ならやってみてもいいかな・・・と思いますが。
案外やってしまえば、楽しいかも・・・楽しいだろうな、とは個人的に思います。

でも子供が小さいうちは良いけれど、学校なんか行ったらいじめられそうですねぇ・・・。


それに無理して頑張ってするほど何か思想や信条があるわけではなく
ただ自分と家族とが快適に健康に、生命に心地良い暮らしをしたいというのが
私のテーマで、その為の食べ物や日用品やらへのこだわりな訳です。

「餅は餅屋」という言葉がありますが、昔からある程度の規模の地域社会やコミュニティ全体として
自給自足を図るという事がなされてきました。村には豆腐屋さんがあり、加治屋さんがおり
酒屋さんもいれば、服の仕立てをする人もいる。

自分で出来ない事はないけれど、専門の人なりお店なりがあり
互いに利用したり交換しあうことで、地域社会全体として自給自足が充足する。

「神の見えざる手」で有名なアダム・スミスが唱えた自由市場経済も、そうした比較的小規模な
地域社会内において自給自足がなされ、そこに住む一人一人が自由でかつモラルに富んだ行動を
するならば・・・という前提条件の元に説かれたものだとか・・・。

現在なら例えば車で1・2時間程度で行き来できるくらいだとか、一都市単位くらいの
規模で考えればいいのかもしれません。屋久島なら屋久島内で基本的に完結する経済の仕組みと
考えると解りやすいかもしれませんね。

高い船賃や航空運賃・燃料をかけて自分たちが食べる野菜を外国から仕入れ、
あまつさえ、それを残飯として大量廃棄するような食べ物とエネルギーの無駄遣いをやらない訳です。
無論食べ物に限った話ではありません。

残念ながらアダム・スミスの本意とはかけ離れて、自由市場経済は私利私欲と利権ドロドロの
グローバル経済を正当化する理論にされてしまっているようです。

世界経済は輸出入の関税問題で長くもめてますが、嗜好品や趣味の物品ならともかく
生きていく基本となる食べ物を遠い遠い外国と売り買いしているのは変な事なのだろうと思います。
フランス産のチーズもワインも美味しいし、バナナなんて輸入しないと食べられない訳ですが・・。

 現在はネットや電話がつながれば、世界中からだって物を買ったりすることも出来ますし
他の国の人たちと話をすることもできます。
でもそれが本当に自分たちにとって良い事なのか、何処まで自給自足でまかなうのか、
昨今の原油価格や穀物価格の値上がりとあいまって考えてしまいます。

今年の冬寒いと石油代高くついちゃうなぁ・・・。
やっぱり薪ストーブを調達したほうがいいかなぁ・・・。ガス代も去年から3回目の
値上げだし、囲炉裏の利用率を高くして節約する方向で考えなくちゃ・・・等々。
田舎暮らしも悩み多く、本当暮らしにくい世の中かもしれませんね。