春・花盛り
江は碧にして 鳥愈々(いよいよ)白く
空は青くして 花は燃えんと欲す
今春みすみすまた過ぐ 何れの日か是帰る年ぞ
毎年鮮やかな赤紫やピンクのツツジの花盛りになると
詠まれている情景の色の対比の鮮烈さ・まばゆいばかりの春の美しさと
不遇の境遇の悲しさとがまた強烈な対比となって迫ってくるこの詩は
当時中学生だった私の心にも鮮烈なイメージを伴って衝撃と言ってもいい、インパクトでした。
この詩を最初に習ったことがきっかけで以降私は漢詩好き。
王維とかも好きですね。
唐代の漢詩は日本の平安期の文学や教養の基礎知識としても
楽しみが半減といっても過言ではないものが多々あります。
「読み書きそろばん」と昔から言いますが
計算・国語力以外の学校で習うことの9割がたは
実社会では使われない(つまり役立たない)知識だと言われます。
大方の人にとっては日常不要で役には立たないものですね。
だから学校の教育や学校なんて無駄だ!!なんていう人も結構多いですね。
でも、日常生活(つまりは経済活動なのでしょうか・・?)で
役立たない・使わないから、本当に不要なんでしょうか?
冒頭の漢詩を思い出す時、またそれに関連して様々な文学や色彩、
つまり雑多な知識を思い出したり、今でもあれやこれやと
本を読み散らしたりすることがままあるのですが、
そんな時日常の、あるいは四季折々の情景や事象が
ただ五感で感じる以上に美しく味わい深い楽しいものになるように思えます。
春、あるい花(さくら)というだけで思い出せる和歌や漢詩、
あるいは絵画、音楽等和洋を問わずどれほどのものがあるでしょう?
そのどれもがまたとても味わい深い美しいものばかりで、
一つ一つが目の前の情景に見ている以上の楽しみや深みを与えてくれます。
春あるいは花ひとつですら、このように楽しめるのは
人を人たらしめている豊かさではないかと感じます。
今我が家では子供たち8歳・6歳・3歳の3人が
競うように古今の漢詩や古典の暗唱をして遊んでいます。
きちんと暗唱ができるとシールひとつ
3歳の末っ子でも杜甫の春望や杜朴の江南の春を舌足らずですが暗唱しています。
漱石が「すべての芸術の士は、人の心を豊かにし
人の世をのどかにするがゆえに尊い」
と書いています。
同じように実生活ではそれほど役に立たなくとも
こうした古今東西の古典や文学といった「教養」を持っていることは
人間としての幅や豊かさにつながるように思います。
それは人生、そして日常生きる上でも。