cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

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和! わ! WHA! うる和しの国 1月

初春月・嘉月・一月「暦好きな日本人?暦と暮らしのあれこれ」  

真冬なのに新春?2月なのに桜咲く?
「新春明けましておめでとうございます」のご挨拶と共に始まる日本のお正月。年末の気忙しい雰囲気から一変して、しんと冷えた新年の朝を迎えると何故か全てが清々しく新しい気持ちになるから不思議です。でも子供の頃、「まだ真冬で寒いのに、どうして春なの?」と素朴な疑問を抱いた人はきっと多いはず。沖縄を除けば、一月は日本では大抵まだ真冬ですよね。「願わくば 花の下にて 我逝かん その如月の 望月の頃」というのはあまりにも有名な西行の辞世の句ですが、『如月』と言えば2月。「2月に桜???寒咲きの桜でもあるのかしら?」などと、思った人もきっといるはず。日本独特の行事や習慣の中には、時々こんな現代人からすると「あれ?」と思う矛盾に出会う事があります。その大半は、私達が普段何気なく使っているカレンダー=暦に、実は原因があります。
奈良時代頃から明治の改暦まで実に永い間日本では、「暦」の制作というのは国の重要政策の一つでした。今のように民間で色んなデザインのカレンダーが売られている光景と言うのは、実は昭和20年の敗戦後からで100年にすら満たない現象です。現在使われている世界標準のグレゴリオ暦太陽暦の一種。これに対し日本人が永い間親しんできた暦は太陰太陽暦、一般には旧暦と呼びます。暦とは元々の語源は「日読み(かよみ)」。日出→日没→日出を「一日」、新月→満月→新月を「一月」として数えて、十干十二支=六十干支を、時刻・日・月・年に当てはめていました。つまり、生き物にとっても、農耕にとっても一番素朴で大切な太陽と月の運行を日々数える、「日読み・月読み」が暦だったのです。現在では年にだけ十二支を当てはめる習慣が残っていますね。でも月の運行だけで暦を作ると、太陽の運行による一年の実際の季節と段々ずれてしまいます。そこで一年を、春分を基点にして二十四等分し、それをさらに三等分する「二十四節気七十二候」を組み合わせて使っていました。主に農耕の目安として、四季折々の自然現象がそのまま名称となっています。例えば2003年は2月4日が立春、七十二候は2/4から「東風解凍(とうふうこおりをとく)=春風が氷をとかし始める」、9日からが「黄鶯睍睆(こうおうけんかんす)=鶯が鳴き始める」、となります。これらの言葉も元々は中国からの輸入品でしたが、だんだん日本の気候風土に合った物に変化しています。どの言葉にも自然を見つめる繊細で的確な観察眼と感性を感じます。明治の改暦まで使われていた天保暦の場合、江戸期の長い平和を背景に西洋天文学の数値なども取り入れて太陰太陽暦としては完璧に近い物でした。幕末頃の450万部という発行数は、当時としては世界でも追随を許さない普及率で江戸期の日本の文化水準の高さを物語っています。古今東西、為政者が暦の制定や、暦に自分の名前をつけたがった背景には、暦に多くの人々の生活を無意識レベルで支配できるという側面があるからですが、日本で長く封建制度が続いた背景には、この暦の普及も一役買っているかもしれません。現在のカレンダーの発行数も相当な物で、日本人は伝統的に暦好きのようです。
さてこの旧暦では、新年元旦は必ず「立春」前後にやってきます。地球が太陽の熱に暖められ、温度が上がるのに約45日かかりますが、日照時間が最も短くなる冬至から45日目が立春です。つまり立春は寒さの頂点であり、この日を境に地球は暖かくなっていくのです。そのため農耕を主体とする東アジア一帯では、立春を全ての生命が再生復活する新年の始まりとして祝い、文字通り新年=新春だったのです。今でも便宜上グレゴリオ暦を使いながらも、実際の生活では伝統の暦を使っている民族や国は意外と多く、有名な中国の春節も新年祝いです。日本では改暦以降、旧暦とは平均35日のずれがある為、旧暦2/15は現代人の感覚では3月終わり頃。西行が生きていた頃の桜と言えば「山桜」ですから、如月・望月の頃は確かに桜咲く季節なのです。現代が新春といいながら、まだ真冬なのもこれで頷けますね。
「改暦裏事情?!極貧明治政府の給料踏み倒し作戦?」
改暦が行われたのは明治5年11月9日。「来る12月3日をもって明治6年1月1日とする」という布告が出されました。これは発表から実施まで僅か23日という電撃政策で、庶民は晴天の霹靂、政府内ですら寝耳に水と言う人が大半だったとか。旧暦11月は既に来年の暦が出版済みで、新暦対応の準備なんて当然ナシ。当の明治政府もその後も関連する新たな法律を発布してそれをすぐ撤回したりと、当時の記録には混乱振りと馴染みの無い暦への庶民の批判が垣間見えます。実はこれには笑うに笑えない裏事情があります。旧暦明治6年は閏月といって1年が13ヶ月になる予定でした。つまり明治政府はお給料も経費も一か月余分に捻出が必要な年だったのです。でも当時様々な新政策や事業で財政は火の車。閏月は当時の財政大臣・大隈重信にとって最大最悪の深刻な問題でした。でも改暦すれば12月もたった2日で終わってしまいますから、都合2か月分の月給と経費をまるまる踏み倒せるチャンス!そこで大慌てでの改暦!という事になったのです。現在ならデモ行進の他、社会問題になりそうな乱暴なお話ですが、2日間ただ働きになっても文句を言わないあたり、当時の日本人の純朴ぶりというか、長い封建制度下で培われた従順な国民性が見てとれるエピソードですね。