cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

屋久島・永田のCafēとゲストハウス。ゆる~く菜食&マクロビオティック 営業案内と田舎暮らし・農・食・サスティナブル・教育その他雑多に。

当たり前を見直す。

イメージ 1
 昨日からの北西風が寒波と降雪を運んできました。
天気予報は曇りでも、冷たい雨が降りしきる屋久島北西部です。
 
 おかげでサツマイモの収穫が中途半端なままです。
あんまり厳しい寒さに当たるとイモが苦くなってしまいます。
早く全部掘りだしてしまいたい~(気持ちは焦る)
 
 観光シーズンも終わってゆったりした(別名ヒマな・・・汗)Cafē水照玉。
観光シーズン中というのは当然いろんな方が見える訳ですが、
今年とても気になっていたのは、食事を残す方が多いこと。
 
 もしかして不味かった、または口に合わなかった?(ガ~ン)
 
 そんなにお腹がすいてなかったので、食べきれなかった?
  (我が家は基本大喰らいなせいか、何でも分量が多めの
   傾向が・・。)
 
 結構忙しいスケジュールで観光する方が多いので、
                          時間がなかった?
 
 と、まぁ色々原因は考えられるわけですが、一番呆れたのは
 「あたしトマトソース食べたいんだよね~、でも野菜が~。(あんまり好きじゃないらしい)」と、
 おしゃべりしながらメニューを選んでいた若いOLか女子大生ぽい雰囲気のグループ。
 
 結局彼女たちは「季節野菜たっぷりのトマトソースパスタ」を注文。
 どうするんだろうなぁ・・・?と思いつつ、提供しました。
 
 「・・・・・・。」
 いや、ホンっと呆れました。トマトソースの絡んだパスタと茄子のみ食べて
 あとは皿の上に固められている・・・・。本当にトマトソース味だけが食べたかったらしい・・・・。
 
 バァロウ!!金はいらねぇから、トットとけぇりやがれ~!!
  と何故かべらんめぇ調で怒鳴りたくなるくらい、呆れました。(ちなみに生まれも育ちも関西人)
  根が小心者なのでやってませんけど・・・・。
 
  お金を出して注文しているのはご本人ですから、どうしようと勝手。
  そう言われたら確かにそうでしょう。
  でも!(フルフル・・・・!手が震える!!)
  食べ物を、食べるってことをどう考えてんだろう?!
  野菜が嫌なら、最初から入れないでとかの注文だって対応しますよ~!!
 
  畑や田んぼやってない人にとっては、食べ物もすべてお金で買うもの。
  種から3か月や半年かかって収穫するまでの過程を見たこともないのかもしれませんし、
  卵が季節や条件で鶏の生む数が著しく変動することも知らないでしょう。
  魚は小家族した現代では、釣りが趣味でもなければ
  自分で生きていたものを捌くこともないのでしょう。勿論肉も同様・・・。
  ちなみに、普段店頭で売られている肉類は、人間でいえば小中学生くらいの
  とてもとても若い鳥や豚が流通しています。そもそも大変贅沢品です。
  お米だって種もみをまいてご飯として食卓に並ぶまでには、八十八とまではいかなくても
  実に多くの工程を必要とします。
  そしてそのどれもこれも全てが、毎年安定・一定して順調に収穫できるわけでもないし、
  台風一発や長雨・日照りで消滅したり、鹿やサル、カラスに食われて全滅するなんてことも
  決して特別な出来事ってわけではないんです。
 
  食べ物がスーパーやコンビニに捨てるほどあるということは
  実は一部の先進国以外では当たり前ではないことの方が多いかもしれません。
 
  そう大半の日本人が「当たり前」と思っていることは
  実はものすごい贅沢なことの方が多いんです。
 
  そもそも手あかが付くくらい言われていることですが食べ物も生きていた生命です。
   でも、知識としては知っていても、それを肌身についた感覚としては
   わかってる人が少ないのが今の日本人の現状かもしれません。
 
  小さな子供の食べ残しをタッパーで残さず持ってかえたり、自分が食べてしまう両親が
  おられる一方で、子供の欲しがるものをいくつも注文して、そのどれも中途半端に遊び食べして
  残していっても平気なお母さんや「小さいんだから仕方ないわよ」とのたまう
  おじぃちゃん・おばぁちゃんも結構多いです。
 
  我が家では食べ物で遊ぶなんぞ言語道断!、体調が悪いなどの特別な理由なくして
  自分の皿にとったものを 食べ残すなんてことは問答無用で平手打ちレベルです。
  そもそも食べられないものを皿に取るなんてことが大間違いの短慮だ!!と怒られます。
 
  話が飛躍するように思われるかもしれませんが、こんな食べ物に関するような
 「当たり前の感覚」、言い換えると「日常の感覚」みたいなものが、
 とんでもなく贅沢になっているから原発にしろ、地球環境にしろ、
 いろんな問題が起きていると私は思うんです。
 
  手をちょっと洗うだけに水道の蛇口全開でジャージャー水を流す。
  過剰な清潔思想とでもいうような、ありとあらゆる洗剤の使用がまるでエチケットかのような宣伝。
  外食するのに駐車場から歩かせるのはサービスがなってないという人。
  室内で半袖でいられるくらい暖房を入れないと不快に感じたり、一方で手足が冷えるくらい
  夏には冷房を効かせる・・・。
 
   もっと言えば三度三度食事がお腹いっぱい食べられて、旅行やレジャーや趣味に時間を
   費やせるのが「当たり前」な人も世界的には少数派で「当たり前じゃないです」。
  スイッチを入れると電気がつく、水道をひねると潤沢に水が出る。
   食べたいものが夏野菜だろうが冬野菜だろうが年中季節を問わず手に入る状況。
 
  それらを日常的に当たり前として、みなが要求するわけで、当然政治や企業は
  そのニーズを満たして儲ける為に企業活動がなされ、自給率38%しかない食糧生産率や
  日本中に原発が作られる結果になってるんじゃないんでしょうか?
  
  もっともっと言えば、
   「エコや自然な生活を意識してます」
  「原発や内部被ばくに関心を持って反対してます」
  「各種のイベントやボランティアに子供と参加して、意識を高く持つようにしてます」
   なんてのも、
 それらが何か特別で大半の人、つまり大衆は
 まだやってない特別な良いこと、
 という特別意識やある種の優越感を私個人は
 すごく感じてしまうんです。
 
 だってそれらが特別であるということは、イコール日常の感覚ではないということ。
 そんなの、誰もが当たり前に普通にやってこそのものじゃないでしょうか?
 
 子育てしてて思うのは、子供は「親のごくごく日常の普段の言動を真似して
 吸収していく」ということ。
 つまり私たち親や大人の日常・当たり前の感覚こそが未来の大人の
 考え方や日常感覚を作り、政治や社会を作っていくわけですよね。
 
 だから「今いいこと、意識が高い」と言われているようなことが
 特別なことやライフスタイルではだめなんだと思うんです。
 
  言い換えるなら、日々のありふれた日常に
  食べ物への感謝が普通の感覚として皆にあり、
  洗濯をするとき、畑を耕す時、掃除をするとき一つ一つに
  当たり前の感覚として、生命や神々の気配のようなものを感じ
  大切にして生きる、行う、意識するということがなされていく・・。
  常にそれらを意識し集中するのが当たり前。
 
  これって日常の所作と思いのすべてが修行であり瞑想であるとし、
   厨房を預かる僧が最も徳が高いとする禅の思想と同じもののように思えます。
 
   日常の当り前の感覚が変われば、日常のすべての所作や行為もおのずと変わってきます。
   そんな日常感覚を持つ人が大人になって社会を作り、政治家になり、あるいは選び
   社会選択をしていく・・・。
   子育てはそういう意味ではまさしく未来を変えるもっとも確実な方法だと私は確信しています。
 
   選挙を控えて「未来の党」がマスコミの悪評とは裏腹に大変な注目を集めているようです。
   でも、いい加減私たちは
   「誰かが、何かが世の中を全く違う、自分たちの望むものに変えてくれる」という
   期待や幻想を抱くことをやめるべきだと思います。
   小泉さんの時も民主党が与党になった時も、結果はどうだったでしょうか?
 
   勿論私は「未来の党」以外に今のところ投票したい党はないです。
   でも結局未来を創るのは私たちの「日常的な、当たり前の感覚や想い」であり
   そこから生まれてくるライフスタイルやニーズが世の中の流れになって
   いくのだと思います。
 
   そのことを肝に銘じて日々を暮らし、日常を瞑想にたいと思うこの頃です。