cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

屋久島・永田のCafēとゲストハウス。ゆる~く菜食&マクロビオティック 営業案内と田舎暮らし・農・食・サスティナブル・教育その他雑多に。

アウトドアの落とし穴

イメージ 1 先週、永田屈指の観光名所となっている渓谷で水難事故がありました。
小学校低学年の子供とその両親が水流が渦を巻くような溜りに入ってしまい抜け出せずに溺死したそうです。通常、観光で訪れる場所は大きな
プール状に渓流が溜まっている場所なのですが、最初に子供が冒険心で
そこから下の流れの方へ一人でおりて行ってしまったようです。浮き輪もつけていたので安心していたのかもしれません。
 結果、子供がおぼれそうになっているのを見つけた両親ともが助けようと飛び込んで・・・という事故だそうです。あくまで聞いた話ですから、何処まで真偽が確かかは不明ですが、普段からアウトドアが好きで良くキャンプに出掛けている家族だったとか・・・・。
 夏休みの最後の週に起こった痛ましい事故で悲しくなります。
 
 最近(以前からですが)、観光客の増加に伴う様々な問題が公的にも
私的にも聞かれます。一番はあまりに人が多く山や森に入るようになったための、いわゆる自然破壊。木の根や植物、特に森の中の植物は
意外と踏みつけに弱いのです。ごく少数や野生動物が適切な数で生息する分には問題なくても、継続的に多数の人間が訪れれば森や植物自体の
修復能力のキャパは簡単に超えてしまいます。
 ところが「観光」とか「癒し」で訪れる人は、自然に対して過度な期待と
幻想を抱いているのように思う事多々あり・・・。人間が継続的なストレスで病気や鬱になるように、それが自然であっても生き物の集合体である以上、ストレスを受け続ければ
ダメージが大きくなっていくのは当たり前のことです。逆に言うと「癒されますね~」なんて言ってる人達はそういいながら精神的ゴミをポイ捨てしてるともいえます。まるで自覚なしに・・・。しかも、「日焼け対策」「虫よけ対策」と称して、化粧品やオイル類ベットリで川に入ったりするわけで、それらは当然川を汚しているわけですが、そういう事には一切言及しない・・・。
 件の渓谷も数年前までは、地元の人たちが渓流にダイレクトに素麺流しをして涼をとり
楽しんでいる場所だったのですが、今や観光客が多すぎるのと、化粧品・虫よけべっちょりで、とてもできる状態ではなくなってしまいました。それでも都会のドブみたいな川や海を見慣れている人間にとっては、夢のようにキレイに見えるので、これまたほんの数時間訪れるだけの観光客は気にも留めない。
 
 ひどい場合は弁当のごみや空き缶、たばこの吸い殻などが捨てられていることも・・・。果物の皮などは確かに自然に帰りますが、地元の人からしてみれば自分たちが子供のころから親しんできた
場所が今や都会から来たよそ者にに占拠されて自分たちは全然遊べない上に、ごみまでおいて行くのでは、はっきり言って「来るな!!」てなもんです。たとえ自然に帰るゴミであっても、人の行いや心遣いとして持ち帰るくらいのモラルが欲しいところです。
 
 で、話は戻って水難事故。アウトドアブームと「癒し」ブームが訪れて以降、野山に出かけたりキャンプを楽しむ人は本当に多くなったと思います。美しく清々しい「場のエネルギーの良いところ」で
ヨガや瞑想をしたり、癒しの楽器の演奏に身をゆだねる・・・なんてのも屋久島に限らず、名だたる聖地やパワースポットと言われるところでは珍しくなくなりました。でも・・・・、そのほとんどがテーマパーク化された自然であるという点に気付いている人はほとんどいないのではないでしょうか?
 トイレ・シャワー完備、ゴミもゴミ箱があったり処分してくれる人がいる。テントを張る場所や、
人が使用する場所は草払いもしてあって、危険な個所にはロープや立て看板がある。管理人や従業員が蜂の巣は撤去していたり、蛇も捕まえていたりとか・・・・。聖地やパワースポットと言われる場所も
車ですぐそばまで行けるお手軽なところが人気です。
 それって「自然」ですか・・・?
人と人の営みが自然の営みの一部ととらえるなら、確かにそれも自然です。
 
 ある学者の方だったと思いますが、自然には3段階くらいのエリアがあるのだそうです。
一つ目は「小自然」。これは「里山」とも言います。古から人が木の実や山の幸、薪や炭などを
頂き、人が利用し手を入れることで生態系が保たれてきた自然。いわば「普通に人が入り利用することを許されたエリア」です。
 二つ目は「中自然」。これは猟師や木こりなどごく限られた、山をよく知り山を生業として山に生かされている事をきちんとわかっている者だけしか入らないエリア。海も同様です。
 そして三つ目が大自然」。これは本来人が入らない、入ってはいけないエリア。神域として禁足地に
なっていたり、物理的に気安くは入ることが難しい場所でもあります。ここに入るのは、修行者や宗教的
行為においてのみで、まさに神々のエリア。
 
 里山より奥の、「山」というのは、本来限られた人間以外が遊びではいる場所では無かった・・・というのが正しいところではないでしょうか。
 
 屋久島の特徴的なことは、この3つのエリアが極めて物理的な距離として狭い範囲に凝縮されている、という点です。つまり、誰しもがちょっと頑張って歩けば、最奥の「大自然」のエリアまで簡単に行けてしまう・・・ということが、縄文杉に代表される屋久島観光の特色かもしれません。
 
 水難事故があった場所は、その分類で行けば里山と「中自然」とが微妙に入り混じったところです。
本来そこは聖地のひとつで、春と秋の神事「嶽参り」において、村の代表として山に祈りを捧げてきた人たちを迎える場所でもあったのだそうです。子供たちや村人が涼をとり水遊びを楽しむ場所では
ありますが、「整備」とか「手入れ」とは無縁です。危険な個所、危険な事、危険が増すタイミング等々、
訪れる人が親から子へ注意を促し、節度を持って接していた場所です。地元の人と言えど、うっかり濡れた岩や苔の上を踏んで滑って怪我をしたりすることは多々あるし、小さい子供が危険な目に合うことも
無いわけではありません。いわば手つかずで剥き出しの自然の中で「人が遊ばせてもらっている」場所だったと言えます。少し雨が降れば増水して、普段より流れが数倍速くなる場所や水流が渦を巻いて
抜け出せなくなるような場所が出来たり消えたり、日々表情を変える場所でもあるのです。
 逆に言えば、訪れる方に注意やある程度の緊張感・目配り・気配りが必要なわけで、それこそが本来の人と自然との付き合い方なのでは?と私は思います。
 
 西部林道と言われるエリアの中も、人の訪問による踏圧で木々が痛んで荒れてきている場所が
あるそうです。ガイドをしている人達もガイドを頼む人たちも、一般にはまだメジャーでない「秘境」や
とっておきを紹介し、紹介されたがるものです。それが経済的にも自然な流れでしょう。
 
 けれど、ここらで本気で屋久島観光の在り方、自然への入り方を訪れる方も、島に住んでいる人間も
考えないといけないように思います。御所みたいに期間限定・人数限定にするとか、入山料を高めに設定するとか・・・・。
 
 加えて人としての美しい生き方であるとか行為といったものをこそ、学校や家庭や社会で
教え、考え、身に付けていくべきだと最近よく思います。
 「正しい」ではなく、「美しい」が重要だと思うのです。
自分の出したゴミをこっそりおいていくのは美しいでしょうか?自分の生活のためだからと
後先考えず、森の奥へ奥へと多くの人を案内していくのは?せっかく高いお金を払っていくのだからと
秘境を要求するのは?みんなやっている事だし、日焼けは嫌だからとTPOも構わず化粧品や
薬品を塗りたくった姿が果たして本当の意味で美しいのでしょうか?
 
 規制を作ったり、環境を整備したりすることも一時的には効果もあるし必要かもしれませんが
私は「人としての美しい生き方や道徳観」みたいなものをもっと考え、誰しもが身に付けていくことが
とても大事な気がします。利益優先、経済優先も然り。世界中の人に清貧になれという気はさらさらありませんが、快適とか裕福な暮らしを捨てられないから原発も環境破壊も社会の必要悪だよね、みたいな
考え方はやはりおかしいと思います。かといって、全部否定して排除しようというのもおかしい。そこには「正しさ」が優先していて、「正しさ」は往々にして対立や戦争の原因にしかなっていない。
2000年も昔から孔子が説き、数多くの聖人が言ってきた「大いなる世界の中での美しい生き方」
みたいなものを今一度、日常の生きかた、考え方として取り組むことはとても大切ではないでしょうか。
 
 水難事故をきっかけに色々考えてしまいます。観光客が減ると比例してお客様もやはり
減りますから「う~ん・・・」て所はあるのですが、屋久島観光の在り方、自然との付き合い方、
ガイドさんの役割と活動等々、屋久島は本当に考えていかないとなぁ・・・と思うこの頃です。