cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

屋久島・永田のCafēとゲストハウス。ゆる~く菜食&マクロビオティック 営業案内と田舎暮らし・農・食・サスティナブル・教育その他雑多に。

田舎の実態・困った編

 田舎暮らし・・・といえば、まず澄んだ空気、浄水器なんか不用の美味しい安全な水、そして豊かな海か山の自然環境。これらの物を誰しも求めて田舎暮らしをはじめる、ここ屋久島の我々が住んでいる集落も現在の所は申し分ない。屋久島と言う所は、田舎暮らしをする上でも特に水の豊かさにおいては群を抜いているのではないかと思う。少し山に入れば(特に世界遺産のエリアでは)其処かしこで水が沸き、澄んだ川がせせらぎとなって海までの僅かな距離を走りぬけていく。屋久島は山地がそのまま海にズボンとはまったような島なので、平地の面積が極端に狭い上に海と山との間の距離が歩いていけるほどに狭い。
美しい海は無論のこと、山の写真だけ見せたら「信州だよ~」なんて言っても信じてもらえるくらい峻厳で、冬なら雪化粧をした山の両方が拝める環境にあるわけで、何の不足があろうか・・・という処だ。
 
 だが、私はごく一部の方としか話してないので一概に決め付ける訳に行かないが、こうした田舎ほど、
実は環境保全の意識や知識が恐ろしいまでに低いのが実態ではないだろうかと思う。
 まず私の住む集落には(というか屋久島全体なのだが)、まともな下水道設備がない・・・。ということはつまり、汚水・生活廃水は全て東シナ海へ垂れ流し・・・ということだ。ちなみにこの島の有力な特産品であるポンカン・タンカンは慣行農法の産物で毎年多量の農薬が山にサンプされている訳でそれらも勿論垂れ流しである。そのためこれらかんきつ類の伐採木を燃やすと染み付いた農薬で目が痛くなる始末だが、屋久島の役場が張り出しているキャッチフレーズは『環境とエコの島』なのだ。
 流石に最近ビニールゴミをその辺に無造作に捨てている人はいないようだが、小は空き缶から大は車や冷蔵庫まで周辺の山には結構な数が捨てられている。殆どの山が私有地なので、冷蔵庫や車などは正規に処分するとお金がかかるので自分の山に捨てているのだろうが、村の年寄りに言わせると「すぐに錆びてなくなるから!」とのこと。まぁ金属は実際にあっという間に錆びて風化してしまう。何しろ家の中にある裁縫箱の針までが湿度の高さと海からの塩気で1年ほどで錆び錆びになるくらいだから、確かに一理あるのだがそれしにても・・・と思う。
 戦前までは人の暮らし自体がそれほど自然に対して現在ほどには負荷をかけないものであったろうし、現在は高齢化と過疎寸前の人口の減少で自然の浄化力の方が何とか勝っているのかもしれないが、この島では他の日本全国と同じように合成洗剤をはじめとした製品が石鹸よりも安価で大量に売られていて、『環境とエコの島』を声高に謳い観光客の誘致にやたらと熱心な事の万分の一も行政も住民も、自身の生活スタイルや産業のあり方には何の関心も努力も払っていないのが現状だ。滋賀県では琵琶湖の環境保全の為に県の条例で合成洗剤等の県内での販売を禁止したという実践例もあるというのにだ・・・。
 だが人の生活圏の本当に近所、歩いていける距離に海があり毎日生活廃水がガンガン流され、田んぼには除草剤が毎年当たり前に振りまかれている所の浜辺が先年ラムサール条約の指定を受け、海亀の産卵上陸数日本一などと言う事で、これまた地元の一部では亀の産卵と小亀の孵化を慣行の売りにして更なる観光客誘致で儲けようと盛り上がっている。一体何を調査してラムサール条約も指定をしたのか・・?と思うし、今の状態で永続して続くはずもないと個人的には思ってしまう。『世界遺産の島』等と言っているが今の現状はまさに自然が営々として作り上げてきた物=遺産を人間が食いつぶして破壊しているだけで、我々人間はできの悪い石つぶしの息子にすぎない。有名な縄文杉へのルート周辺の山も荒れてきているらしいし、豊富で美味しい水も観光客の増大=観光産業の増大と共に水質が明らかに汚染されてきているというデータが、屋久島の民間で発行されている雑誌「生命の島」でも詳細なデータと共に掲載されているが、行政の方はニュースなどでも報道されている通り合併問題に終始していて迅速な対応も具体的な対応も全くなされていないのが現状だ。いっその事世界遺産もラムサールも登録取り消しになって観光産業が下火になったほうが、屋久島の自然はよほど守られるだろうと主人ともよく話しているくらいだ。
 この合併騒動と言うのも内情を暴露すれば全く馬鹿馬鹿しくなるが、現在の体制で利権や利益を得ている人々が何とか現体制を守ろうとして反対をし、合併が避けられないとなると今度は現職の上屋久議員たちが合併特例法で2年議員をしていれば任期終了まで継続できると言う項目があるらしく、なんとか2年まで自分達の任期を延ばすために合併期限の延期を訴えるという始末。(もちろん建前は悪戯に合併を急ぐより住民に充分な理解や納得を!とか、合併によって上屋久町の住民の方が不利益を被るであるとか、もっともらしい理由もあげていたが具体的なデータや論証もなければ、では自分達が将来に向けてどうするのか、どのように努力していくのかと言う明確なビジョンもない)
 ちなみに上屋久町の役場職員の平均年収は600万、町民の平均月収は200万で3倍近い年収を得ており、勿論採用も少なく(定年までみんな辞めないし、結婚しても共働きで結婚退職なんかしないからやたらと夫婦で働いている人が多い)、それも100%コネ。役場職員と町議会議員というのは殆ど特権階級みたいなものだ。合併なんぞしたくないのが人情と言う物だろう。では年収に見合う仕事をこの人たちがやっているかと言うと、役場に関してははっきり否である。
 何しろ、出生届を出したら子どもの名前は書き間違うわ、手続きに人が長蛇の列をなしている訳でもないのに、窓口に行っても中々対応に出てこない上に何か質問をしても即座に回答できないわ、ミスは多いわではっきり言って「税金泥棒!」と叫びたくなる現状なのだ。
 封建時代の名残でお役人はエライと言う気風が特に薩摩は強いらしいと言う話も耳にしたが、私は公務員の給料なんて物は議員もそうだが、その土地土地の平均年収に合わせるべきであると思う。だって民主政治の法律上は「公僕」なんですよ。なんで住民の3倍も給料貰ってろくにまともな仕事もしてない訳!と怒ってしまうのがマトモな思考回路ではないかと思ってしまう。上屋久町曰く国家公務員の給与体系を基準にしてるらしいが、東京の物価や生活の為の収支と屋久島とじゃ同列にするほうがオカシイ!
 話を元に戻して、一連の合併騒動も含めて(住民投票4回もしたわけだが)こんな無駄な経費をスパッとカットして、例えば観光客の詰め掛ける山にコンポストトイレを設置するなり、福岡県のある都市で行っているように下水処理を完全にバイオ技術で浄化する施設にするとか、補助金や制度を整えて島内の営業・自給を問わず農業を無農薬で環境に負荷の少ない方法に町全体で推進していくなど、『環境とエコの島』にふさわしい具体的な取り組みがもっとなされるべきであると思う。ゴミを分悦収集しているだけで『エコ』を謳うなんてあまりに安直じゃないか!!
 あまつさえ、「教育」と称して地元の小学生に登山道にある山小屋のし尿汲み取りをさせるなんて、特攻隊や人間魚雷を少年兵にやらせた軍人の思考と対して地平を隔てない、実にナンセンスな事に私には思える。第一その汲み取ったし尿だって単に別の場所に埋めるだけなのだ。何の根本的解決にもなってない。 私もこの山小屋には4ヶ月の娘を背中に背負って地元の行事である「嶽参り」で登ったのだが、大量のゴミが地面に埋められているのが雨で露出しているのを見て愕然とした覚えがある。昔は鹿が水を飲みに繰るほど澄んだ沢で鹿の沢小屋という名なのだが、現在では当然だが鹿はこないと言う事だ。

 つい息巻いて色々書いてしまったが、これが私達が住む田舎の一側面なのだ。それでも現在は空気も水も海も美しい。水道水だって3月の年度末をひかえたせいか、1月2月の今はカルキが頻繁に投入されているが普段はそのまま飲める美味しい山の水だ。

 子どもを持ってしみじみ思ったけれど、今現在だけではなく子ども達が大きくなりまた子供を育てる時に今の環境が今のまま、いえそれ以上に自然に恵まれた美しい場所であって欲しい、そういう風に残したいと考えています。遺産を食いつぶすのではなく遺産を残していきたい。けれど、現在の大半の地元の方の意識も行政も観光産業による収益か、今まで何の問題もなかったのだからいいではないか・・・といった感じの現状維持に思えてなりません。こうした事はホカから移ってきたよそ者の方が良く見える物であり、地元の人との意識のギャップの大きな要素の一つであるようには思います。なにしろ、無農薬や有機農法で米や野菜を作るのも移住者がその殆どを占めているのです。土地の人が皆高齢である為、除草剤なしでの稲作は労働としてきつくなるし、合成肥料を使わずにとなれば堆肥作りの手間隙や労力が必要となるわけですが現実に厳しいという実態も考えなければなりません。が、「除草剤撒いて化成肥料やっとキャ楽でいいじゃん~」と気楽に婆ちゃん達はのたまうし、自分達が野菜を洗うのに使う水路が汚されるのには非常に目くじらを立てる割にその上流にある山の果樹園には大量に農薬を撒いていても生活の為であるからか問題外視している意識のありようは、田舎暮らしに大なり小なり夢を持ってきた都会からの移住者にはいささか(かなり?)ショックではあります。 この辺りの意識や環境への認識の違いというのも田舎への移住者が直面する地元との軋轢の一つの原因かも知れません。

 これだけ情報が行き渡っているように見える現代ですが、それはごく一部の都市部の事だけであり、かつ流れている情報が本当に真実であるか全てであるかといえばそれも否です。まして情報の受け取り手が自身が求める好ましい情報のみを無意識にも選択しているのが現実ですから、都市部の住民とカントリーサイドの住民とでは大いに開きがあると見て然るべきに思います。
 昔から三代住まなければその土地のものとは認められないと言いますが現代もそれは同じこと。でもこの意識の違いや軋轢もまた、自身や自分の物の見方考え方を見直す大きなきっかけにもなり田舎暮らしのあまり表に出てこない一つの収穫ではないかとも思います。