cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

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三月・弥生 爛漫の春は女神たちの季節

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三月・弥生・花月・はるおしみづき春惜月・夢見月・暮春・華節・桃浪
~春・花爛漫。春は女神の季節~

 前号まで暦について書きましたが、旧暦三月は現在の四月~五月頃にあたります。弥生とは「弥栄(いやさか)に生命が栄える」という意味。花月・華節という言葉の通り、梅の芳香から始まり、山を染める桜、華やかな桃のピンク、木蓮の清廉な白、連翹や山吹、菜の花の眩い黄金色、躑躅や牡丹の鮮紅色に、この上なく高貴な藤の紫色と、瞬きほどの短い間に次々と咲き乱れる花々の色香であふれる季節。

 穏やかで暖かい風、空は淡い春霞、朧月浮かぶ夜は花々の静かで艶かしい吐息が感じられ、いつまでも人を心地よいまどろみに引き止めます。

 「花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」という李白の詩の如く、瑞々しくも、ある種官能的な生命力に満ち満ちていて、殊更に時の流れが早く過ぎゆくように思われる季節が春。それ故にまた春惜月という言葉もあります。

 稲作農耕を主体としてきた日本人にとって春の花の豊かさは、そのまま大地の生命力や生産力の豊かさであり秋の稲の収穫とイコール=の関係でした。昔、農村には田打桜と言って農耕の目安とされる桜が必ずあったのですが、「サクラ」とは元来、大地・穀霊神を意味する「サ」の降臨する場所「クラ(座)」の意味です。
 桜に限らず花はその殆どが枝や茎の先端から咲きだします。冬の間全身にじっと蓄えていた大地の生命力が溢れてこぼれ出すように咲くのです。桜花の神は木花咲耶姫という女神ですが、同時に山の神、それも富士山という火山の神であり出産と火伏せを司っている事は有名です。彼女の父神が大山祇神という山・大地の神であり、花(特に桜)が豊かに咲けば咲くほど大地の生命力が豊かだと昔の人々は考えた訳です。
 元旦から始まり、人日(七草)、節分、花見、そして雛の節句と行事続きの春。折々の節句や行事はどれも季節ごとの花々や自然の美しさを寿ぎ、節句料理や薬湯などにして五感でも味わう物ですが、それはそのまま大地や自然に息づく神々を寿ぎ、その力を自分の身にもらう意味合いがあります。少しでも春の気、その豊穣な生命力に触れ、我が身に取り入れたいと願って、春の行事はこんなにも多いのかもしれません。それでなくとも誰もがソワソワと気分も浮き立つ季節です。

 そんな春の節句と言えば桃の節句・雛祭り。古い言葉では上巳の節句とも言い、元々旧暦三月上旬の巳の日に行われていた事からの呼び名。中世頃から三月三日の日に固定され、重三とも言われます。現代では豪華な雛人形に白酒、桃の花を飾るのが慣例ですが、元来は冬の間に溜まった穢れを紙の人形に移して川や海に流し去る祓いの行事で、女子の節句として定着したのは中世頃以降。流し雛の風習はその名残。

 この節句に欠かせない桃は中国では女性の仙人や神達を統べる女神・西王母の花。桃は元来実り豊かな多産の木ですが、彼女が育てる桃には催淫効果があるとされ、大地母神的な神聖さと、官能的魅力や美という女性性の全てを持つ春の女神でもあります。
 いい言葉ではありませんが「春を売る」という表現、「春は恋の季節」と言うように殆どの動物が春に繁殖期を迎えるなど、春と春の女神にはいわゆるエロス=性的な側面が色濃くあります。
 興味深いのはこの女神の地位は現役西王母の娘が妊娠した時点でその娘に譲られ、新しい西王母が誕生すると考えられている事。前述の木花開耶比売も燃え盛る炎の中での出産の神話が語られていますが(これは古代の焼畑農業がモデルとの説もあります)、それは彼女達が豊穣を司っている穀物の、芽吹き→成長→実りと枯死→芽吹きという永遠の死と再生のサイクル=不死性を暗に物語っています。自然界全体が死の眠りについていた冬から再び復活するのが春だからです。それゆえ女神の花である桃や桜にも破魔の力が宿るとされました。昔話の桃太郎はその発展系です。

 そんな花々の女神の神話にあやかり、女児の成長や幸せを祈って雛人形を飾る習慣は日本独特のもの。平安期の宮中の華やかな婚礼風景を再現し、様々な呪術的な意味合いを込めた道具の数々を並べた雛飾りと節句料理が整えられます。この時に欠かせない料理が蛤のお吸い物。勿論春の味覚の一つではありますが、案外母から娘への一種の性教育的な側面もあったのでは?と想像するのは、はてさて考えすぎでしょうか?