cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

屋久島・永田のCafēとゲストハウス。ゆる~く菜食&マクロビオティック 営業案内と田舎暮らし・農・食・サスティナブル・教育その他雑多に。

七夕と夏のたままつり霊祭り~和漢折衷・神仏混合の夏風景~

 七月の代表行事と言えばやはり七夕。古くは七夕(しちせき)の節句・星祭(ほしまつり)・
乞巧奠(きこうでん)とも言い棚機とも書きます。

 現在ではどれも同じ日の同じ行事を指しますが実は古い時代、これらは各々違う行事や由来を持って
いたと言うのはご存知ですか?

 七夕を「たなばた」と読むのは当て字。古くは「棚機」と書きました。これは稲作以前の時代、
畑作の収穫を祝う行事に由来します。既に何度も述べていますが旧暦と新暦との差は少なくて20日、
最大50日、平均35日のズレがあり、旧7月は現代では大体8月半ば頃。
この頃になると麦・粟・稗などの穀物や胡瓜・茄子・茗荷など夏野菜や若い大豆=枝豆が収穫を迎えます。

 神社神道軍国主義による国家神道が生まれる以前、遠い古代から続く民間・生活信仰としての
神道では、神々は人間と血縁のつながった遠い祖先だと考えられていました。人は死ねば祖先=神々の
仲間入りをし、農耕の収穫や今生きている子孫達を守り導くものと考えられていたのです。ですから
収穫の頃には「霊祭り(たままつり)」と言って近しい祖先と神々達に、収穫の感謝と祝いの祭りを
当然行ったのです。川や海・山から来る神々の為の乗り物として、胡瓜の馬や茄子の牛が数々の供物と
共に供えられました。

 その霊祭りに先駆ける禊(みそぎ)と祓え(はらえ)の行事が「棚機」。7月7日夜、清流の上に
棚と小屋を作り、巫女である聖なる処女が一晩中機を織って神を祭り過ごすのです。

 この巫女を乙棚機(おとたなばた)・棚機女(たなばたつめ)と呼びました。乙棚機とは神の花嫁。
一夜明けた朝、あらゆる災いや穢れを彼女が神に託し水の流れと共に遠い彼方へ持ち去ってもらって、
祓えが完了します。その後にはじめて霊祭りを行ったのです。

古事記にも天照大御神自らが機を織る描写が見られますが、衣とは本来魂を包み守る神聖な物とされ
霊魂のシンボルと考えられていました。機織はそれ故に清らかな巫女の仕事であり、女性にしか出来ない
神聖な作業として後の世までも女性の仕事とされたのです。

主婦の仕事とされる衣食住は古代の日本では、生命を生む力を持つ女性だけに許された神聖な仕事であり、
男性が厨房や機織小屋に入ることは禁止されていました。主婦の仕事に対する考えが現在とは正反対な訳
でちょっと考えさせられます。この霊祭りと地獄に落ちた先祖を救済する仏教の盂蘭盆会が習合したのが
現在のお盆です。同じ先祖が対象ですが本来の意味合いはこれまた全く正反対なのです。

 現在の七夕に最も近いのが星祭りでしょう。牽牛・織女の二つ星の伝説は万葉集の時代に中国から日本に
渡来しました。その悲恋の伝説はいかにも日本人好みだった為、既にこの時代和歌にも多く詠まれています。

旧暦7月の古代の夜空は天の川も星もそれは見事だったはずです。この星祭と平安期に渡来した「乞巧奠」
がやがて一緒になり貴族達に盛んに祝われるようになったのです。現代では聞きなれない「乞巧奠」ですが、
京都の冷泉家では現在も古来のままに行われています。織女星が美貌・才能共に優れた天界一の織姫であった
という伝説にあやかり、機織・針仕事・歌舞音曲や詩歌・文字など女性が身につけるべきとされた技能の上達
を願った行事です。
 
 庭に祭壇をしつらえて酒や果物、菓子などと共に五色の糸を通した針や琴、硯・筆を並べて香炉を焚きました。
冷泉家では紙が使われる以前の代用だった梶の葉に和歌を書き付けます。江戸時代頃から庶民の間でも祝われる様に
なり祭壇に使われていた笹竹が、細長い竹に変わり短冊に様々な願い事を書いて星に託すという現在のスタイルに
変わっていったようです。

 七夕には実はこんな何重もの複雑な由来があるのです。さて、ディズニーの歌にも「星に願いを」が
あります。現代の貴方ならさしずめ何をお願いしますか?