cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

屋久島・永田のCafēとゲストハウス。ゆる~く菜食&マクロビオティック 営業案内と田舎暮らし・農・食・サスティナブル・教育その他雑多に。

巡環する宇宙観~~エコロジーの先駆者・梅辻規清と烏伝神道~②

  ある婦人雑誌にイギリスの「ナショナルトラスト」についての記事が数ページにわたって
取り上げられていました。

ナショナルトラストの自然保護活動を支える多くの寄付やボランティアについても、
日本人が見習いたい尊い活動として多くのページが割かれていました。

 でも日本では2000年近くも、ナショナルトラストがやっているような事は続けてきているのです。

 「氏子」や「寺子」として、自分の住む土地のお寺や神社の神域・聖域を大事に敬って、
人の手が触れないよう守って来ましたし、お布施として金品を納め、奉公として寺社と周辺環境の
整備や修理・手入れなどもその土地にすむ人々が共同で努めてきたのが、日本の伝統的な村社会・
街社会だったのです。

舶来物が大好きなのは歴史的な日本人の国民性ですが、ナショナルトラストの例に限らず、
私達は今一度、私達自身の国の伝統や思想・価値観について見直してみる必要があるはずです。

 スタンダード、定番、一般的。色んな言葉があります。
本来これらは、多くの人がそれを使ったり、体験して「いい」と感じ認めていく過程で
自然発生的に生まれてくるものだと、私は認識しているのですが、
どうも現代はいささか事情が違うようです。

 衣や食の流行は業界やマスコミの意図するところに流れているのは周知の事実で、
極端な話、マスコミやコマーシャル手段を使える経済力や影響力があれば、意図的に流行を操作すること
は充分可能です。

新聞や雑誌でよく紹介されているお店に食べに行ったけれど、さして美味しくなかったという話は
よく聞きます。

 ある意味、その最たるものがアメリカの提唱する「グローバル・スタンダード」かもしれません。
アメリカの常識=イコール世界の常識というのは、やはり軍事力と経済力を背景に世界に権力をもつ
国ゆえの、随分と乱暴な理論ではないのかと個人的には思ったりするのですが・・・。

  話が飛躍してしまいましたが、現代の私達の食事にも、私たち自身にも、
梅辻規清が言うところの「霊味」が欠けているように思えます。

世の中はデフレ傾向を強めていて「安い」ものが歓迎される傾向は益々強まっていますが、
都市部を中心に展開しているあるスーパーで異常に安い野菜や食べ物を最近よく見かけます。

で、これが私個人としては「二度と買いたくない」と決意させるくらい
ひどい物だったという経験があります。

まず第一に味がないのです。人参とかピーマンとか本来アクや風味が強くて、
子供には嫌われる事の多い野菜でも何やら水っぽくて、独特の風味や味というものが殆どしないのです。

二つ目には、すぐに煮崩れてしまう。

三つ目には冷蔵庫内でも、すぐにどろどろに腐ってしまって、どうにも野菜自体に
「根性がない」のです。

この状態というのは現代人・現代っ子にも当てはまると思うのは私だけでしょうか?

個性とか個人のオリジナリティとかがやたら言われ主張している割には、
みんな似たような服装で似たような音楽を聴いていて、女の子はみんな流行メイクで、
同じような顔をしているという印象があります。

見切りが早いと言えば聞こえは良いけれど、恋愛でも仕事でも嫌だとすぐ止めてしまう。
ちょっと歩いたら疲れて、地面に座り込んでしまう「ジベタリアン」も街で多く見かけます。

そして一時流行語にもなった「キレル子供」という現象。

なんだかオジサンかオバサンの愚痴みたいですが、私が接する人たちの中にも
実際こんな人たちは結構な割合で実在しています。

そしてやっぱり彼らたちの食事には、子供の頃から現在に至るまでレンジ・冷凍食品やコンビニ食品、
ファーストフードの割合が非常に高いのは確かなのです。

見た目やカロリーは立派にあるけれど、肝心の栄養もなければ、時間をかけて仕上げられた
作り手の気持ちも存在も無く、楽しく共に味わう相手すらいない場合も多い食事。

それらを食べている人間が、やっぱり見た目だけは身長も大きくてスタイルも良いけれど、
精神的にてんで未熟・脆弱なのは当然のことのように思えます。

足りない栄養素はサプリメントでも摂取出来ますから確かに肉体的には問題なく育つのでしょうけれど、
精神や魂は育っていない。

アナログな言い方で、「ハラのすわっていない」人間ばかりが量産されている気がする・・・
というのが私の本音です。

五感で感じる以外の、いわば魂や精神の栄養と言ってよいものが「霊味」なのかもしれません。
そしてそれは確かに存在しているようです。

 全く同じ材料・レシピで、同じ手順で作っても、作り手で料理の味が変わったり、
材料の産地でも味が微妙に変わってしまうことは、多くの方が体験しているところです。

 フランス料理のあるシェフは、本場フランスで学んだ味がどうしても再現できないことに
悩んだ挙句、フランス料理で最も重要な存在の一つ・ソースに使う牛乳やクリームを、
フランスから空輸で取り寄せることで、やっと解決した・・・という話もあるくらいです。

 そんな現代の科学ではまだほとんど見つけられていない、でも確かに存在している「違い」の存在。

梅辻規清が語る「霊味」は、幕末の神道家が展開した胡散臭いだけの宗教理論ではなく、
見えないけれど確かに存在しているものを見事に言い当てた、宗教と言う枠を飛び越えた
実際的理論だと思います。

人間の五感で関知できない、わからないものを探求・解明していくのが科学であるなら、
いつかこの違いの正体や霊味についてもわかる日は来るでしょうし、
そうなれば私達の食や生活を取り巻く産業のあり方自体が大きく変わるかもしれません。

太陽や天候、大地や水からもたらされる恵みと言う名の霊味。

米や野菜や、鶏や魚を育て作る人たちが込める愛情や丹精という霊味。

そして最後に、おそらくは一番決定的な、
火(カ)と水(ミ)とを使う台所で調理をする人のもたらす霊味。

食べるその瞬間、私達はその多くの霊味がこもった料理を
「噛み」味わう=神を味わう=神を食べる、のです。

だから、よく噛んで食べることは大事で、食べ物をよく噛むと、骨や血や肉になるのです。

 古代の日本語では赤ちゃんを育てる乳も、血も霊も全部、(チ)と発音し、
神も(チ)と読む場合がありました。

奥さんのことはオカミサン。

 言霊を意識して季節ごと、日毎に和歌を詠み、言葉の響きや意味を貴んだ古代の日本人。

ちなみに梅辻規清は上賀茂(カミカモ)出身。

貴方は単なる言葉遊びと片付けますか?それともそこに深遠で敬虔な古代の人々の意識を感じますか?