cafē 水照玉 & hostel~多忙なスローライフ徒然

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二月・如月 維新政府の改暦裏事情

二月・如月・梅見月・ゆきげづき雪消月・仲春

 カレンダーと言えば「数字」と現在では考えがち。でも世界的には「言葉」で綴られた暦の方が多いようです。1月の号でご紹介した二十四節気七十二候も、日本人の四季折々の自然への、繊細で的確な観察眼と感性を感じさせる言の葉による暦ですが、明治の改暦まで使用されていた天保暦の場合、西洋天文学の数値も取り入れて、実は太陰太陽暦としては完璧に近い物でもあったのです。しかも幕末頃で450万部という、当時としては世界の追随を許さないダントツの発行数と普及率。暦が読めるイコール=識字率も高い訳で、当時の日本の文化水準の高さを物語っています。
 古今東西、為政者が暦の制定や暦に自分の名前をつけたがった背景には、暦に多くの人々の生活を無意識レベルで支配できるという側面があるからですが、日本で長く封建制度が続いた背景には、この暦の高い普及率も一役買っていそうです。何故なら戦国時代の混乱で地方毎にバラバラだった暦を、許認可制にして統一したのが徳川幕府だからです。現代日本でもカレンダーの発行数は質量とも世界的にみても圧倒的に多く、どうやら日本人は伝統的に暦好きな民族のようです。

 さてこの旧暦では、新年元旦は必ず「立春」前後にやってきます。地球が太陽の熱に暖められ、温度が上がるのに約45日かかりますが、日照時間が最も短くなる冬至から45日目頃が立春。つまり立春こそが寒さの頂点であり「陰極まれば陽生ず」でこの日を境に地球は暖かくなっていくのです。
 そのため農耕を主体とする東アジア一帯では立春こそが全ての生命が再生復活する新年であるとする、立春正月の考え方が生まれました。文字通り新年イコール=新春だった訳です。今でも便宜上グレゴリオ暦を使いながらも、実際の生活では伝統の暦を使っている民族や国は意外と多く、中国の春節も新年祝いです。
 日本では改暦以降、旧暦とは平均35日のズレがある為、旧暦2/15は現代人の感覚では3月終わり頃。西行が生きていた頃の桜と言えば「山桜」ですから、如月・望月の頃は確かに桜咲く季節なのです。現代が新春といいながら、まだ真冬なのもこれで頷けますね。

 「改暦裏事情?!極貧明治政府の給料踏み倒し作戦?」
 改暦が行われたのは明治5年11月9日。「来る12月3日をもって明治6年1月1日とする」という布告が出されました。これは発表から実施まで僅か23日という電撃政策で、庶民は晴天の霹靂、政府内ですら寝耳に水と言う人が大半だったとか。旧暦11月は既に来年の暦が出版済みで、新暦対応の準備なんて当然ナシ。当の明治政府もその後も関連する新たな法律を発布してそれをすぐ撤回したりと、当時の記録には混乱振りと馴染みの無い暦への庶民の批判が垣間見えます。
 実はこれには笑うに笑えない裏事情があります。旧暦明治6年は閏月といって1年が13ヶ月になる予定でした。つまり明治政府はお給料も経費も一か月余分に捻出が必要な年だったのです。でも当時様々な新政策や事業で財政は火の車。閏月は当時の財政大臣・大隈重信にとって最大最悪の深刻な問題でした。 でも改暦すれば12月もたった2日で終わってしまいますから、都合2か月分の月給と経費をまるまる踏み倒せるチャンス!そこで大慌てでの改暦!という事になったのです。現在なら社会問題になりそうな乱暴なお話ですが、2日間ただ働きになっても文句を言わなかった当時の日本人、長い封建制度下で培われた従順で純朴な国民性が見てとれるエピソードですね。
 
 さてさて、昔から世界暦を作って統一しようとする動きもあります。世界中が一つにまとまる上では言語と並んで暦の統一と言うのは大変効果的ですが、グレゴリオ暦がそもそもヨーロッパキリスト教圏の暦である事も関係して、前述の如く外交上以外では伝来の暦を使っている国々の方が実は多いのが現状。
 
 個人的には、日本特有の四季や気候風土に沿って生まれた旧暦の方が、やはり折々の伝統の行事にも合っている物ですから、季節と共に生き合っているという実感があります。何より数字だけだと味気ないし、二十四節気七十二候の更なる復権を求む!と言うのが本音ですが、如何な物でしょう?